『檸檬』を短くしてみた

Twitterタグが面白そうだったので、本来のタグの趣旨と違う気もしますがやってみました。

 元のデータはこちらを利用させていただきました↓

梶井基次郎 檸檬
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

ほぼ元データを削っただけですので利用可能な範囲を超えている可能性もあります。

ですから著作権に問題がある場合にはすぐに削除いたします。

 

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終えつけていた。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
 時どき私は路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とかへ今自分が来ているのだと思おうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出したかった。

 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言え私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。

 生活がまだまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。

 ある朝友達が学校へ出てしまったあとに一人取り残された。私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。私は二条の方へ寺町をり、そこの果物屋で足をめた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。

 そこの家の美しいのは夜だった。どうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。その家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出したなのだが、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭にけられた幾つもの電燈が浴びせかける絢爛は、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。往来に立って、また近所にある鎰屋の窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でもだった。

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。あの単純な色も、それからあの紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それから私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらかんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる。心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。快いものだった。 

 私は何度も何度もその果実をいでみた。胸一杯に空気を吸い込めば、なんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……

 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて不思議に思える。

 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで歩いていた。手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映をったり、またこんなことを思ったり、

 ――つまりはこの重さなんだな。――

 その重さこそづね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、諧謔からそんなことを考えてみたり――私は幸福だったのだ。

 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。

「今日はつ入ってみてやろう」そして私は入って行った。

 しかし、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。憂鬱が立てめて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、はぐってゆく気持は湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上はらなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだった本まで置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。

 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚見終わって後、尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……

「あ、そうだそうだ」その時私はの中の檸檬を憶い出した。本の色彩を積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

 私にまた先ほどの昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また潰し、また築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。その頂きに檸檬を据えつけた。それは上出来だった。

 見わたすと、その檸檬の色彩は冴えかえっていた。私は丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

 不意に第二のアイディアが起こった。そのたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なにわぬ顔をして外へ出る。――

 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私は出て行った。

 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ爆弾を仕掛けて来た悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善粉葉みじんだろう」

 そして私は京極を下って行った。

 

以上になります。おおよそ半分ほどの長さになりました。

本文を読んだことのある人にとってはあまり違和感がなく読めると思います。

しかし、初めて読むのがこのバージョンだったらどんな印象を受けるのか。

なぜこの小説がそこまで有名になったのだ?と疑問に感じるのではないでしょうか。

この小説は短く、ストーリーもそこまで面白いものではないと思います。

だとしたらおそらく面白さは表現にある。

巧みな比喩表現と文体が読み手を引き付けているように感じます。

だからこそ、こうして比喩やらなんやらを取り去ってさっぱりしてしまうと面白くないのではないでしょうか。

裏返すと、比喩を取り去るとつまらなくなるのは元の比喩が優れているからだというようにとることはできないでしょうか。

 

今回こんな試みをしたのは、上でも書いたようにタグを見たからです。

語彙力と表現力は違うと思いますが、文豪の持つ力というのは一度その力を取り払った状態を見ることにより再確認できるものなのかもしれないと思わされます。

 

※このような記事が可か不可かについては、以下のサイトなどを基に判断しました。

はじめでも書きましたように、問題があれば削除いたします。

ただ、悪意のない編集であることはご理解いただけたらと思います。

 

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